NIGOのキャリア総まとめ|学生時代からKENZOに至るまで
2022年1月23日、NIGO(ニゴー)はKENZOのアーティスティック・ディレクターとして待望のデビューコレクションを発表した。
NIGOがラグジュアリーブランドで指揮を執るのは今回が初めてだが、この伝説的な日本人デザイナーは何十年にも渡って独自のラグジュアリー分野を開拓してきた。
BAPEが一世を風靡した時代から、最近ではヴァージルアブローとのルイヴィトンでのコラボまで、NIGOはストリートウェア業界の最前線に立ち続けているのだ。
今回は、そんな彼のキャリアを振り返ろう。
【目次】
1 文化服装学院に入学
2 雑誌POPEYEのライターを始める
3 ショップNOWHEREのオープン、BAPEのローンチ
4 2002年にBAPESTAをリリース
5 ファレルウィリアムスとBBC/ICECREAMをスタート
6 ヴィトンのサングラス「ミリオネア」をデザイン
7 2010年にHUMAN MADEをローンチ
8 2011年、BAPEを香港企業に2.3億円で売却
9 ユニクロ「UT」のクリエイティブ・ディレクターに就任
10 ヴァージル率いるルイヴィトンとのコラボ
11 KENZOのアーティスティック・ディレクターに就任
1 文化服装学院に入学
1970年、看護師の母親と金属加工職人の父親の間に長尾智明として生まれたNIGOは、日本のメンズファッション雑誌POPEYEを読んでファッションに興味を持つ。
そして、18歳の時に群馬県から上京し、ファッションジャーナリストを目指したそうだ。
NIGOは文化服装学院に入学すると、在学中にUNDERCOVERのデザイナー高橋盾と知り合い、80年代後半に彼から藤原ヒロシを紹介される。
幼少期に読んでいた雑誌「宝島」に掲載されていた藤原ヒロシと高木完氏のコラム「LAST ORGY」に夢中になっていたNIGOにとっては憧れの人物の一人であった。
彼らはすぐに親しくなり、2人が似ていたことから、周りは長尾氏を、「藤原ヒロシ2世」という意味で「NIGO(2号)」と呼ぶようになったのであった。
2 雑誌POPEYEのライターを始める
そして、藤原ヒロシと出会った後、雑誌POPEYEにスタイリスト兼ライターとして入社。
藤原氏と高木氏から受け継いで、高橋盾とともにコラム「LAST ORGY 2」を執筆した。
「編集やその経験を通じて洋服を作り始め、今に至っています。ストリートカルチャーのようなものは、こうした経験から生まれるものです。」と語るNIGO。
POPEYEでの経験は、NIGOがファッションデザイナーとしてのキャリアをスタートするきっかけになったのだ。
3 ショップNOWHEREのオープン、BAPEのローンチ
1993年、NIGOと高橋盾の二人は裏原宿にショップNOWHEREをオープン。
店の半分は高橋氏のUNDERCOVERを売り、もう半分はADIDASのスーパースターなどNIGOがセレクトしたアイテムを販売していたが、そちらの方は売れ行きがあまり良くなかった。
そこで、NIGOはグラフィックデザイナーのSK8THING(通称:スケシン)とともに、A BATHING APE(ア ベイシング エイプ)というブランドを構想。そして、BAPEはスタートして間もなく、日本国内でカルト的人気を博し始め、90年代後半には、国内に6つの店舗を構え、年間20億円も売り上げていた。
また、数量を制限するという、当時のBAPEが行ったアプローチは、最近でも多くの高級ストリートブランドが真似している。
4 2002年にBAPESTAをリリース
Via Pinterest
NIGOは、2002年にNIKEの名作であるエアフォース1にインスパイアされたBAPESTAというスニーカーを発表した。
エアフォース1がシンプルでベーシックなアイテムであったのに対し、BAPESTAではパテントレザーなどの新しい素材を使ったり、面白い色の組み合わせでアレンジしたりしたことで話題に。
2005年にはKAWS、2007年にはカニエ・ウエスト、他にもスポンジボブやN.E.R.Dなどとコラボレーションし、スニーカーをコレクター向けの高級品に昇華させることに貢献した。
5 ファレルウィリアムスとBBC/ICECREAMをスタート
BAPEがアメリカに浸透していく中、2003年にファレル・ウィリアムスとNIGOはタッグを組み、BILLIONAIRE BOYS CLUBとICECREAMを立ち上げるとすぐにファンを獲得。
宇宙飛行士のロゴ、アーチ状のブランドロゴを胸にあしらったTシャツ、ダイヤモンドとドルマークを散りばめたパーカーは、人々に強烈なインパクトを与えたのだ。
また、100%日本製ということもあり当時のストリートウェアの中ではかなり高価であったが、それでも大成功をおさめ、一世を風靡した。
カラフルなグラフィックTシャツや総柄のパーカーといったストリートウェアを、ラグジュアリーなアイテムへ昇華したことは、NIGOの大きな功績の一つと言えるだろう。
2004年、NIGOとファレルは、当時LOUIS VUITTONのデザイナーを務めていたマーク・ジェイコブス氏に指名され、サングラスのデザインを手がけた。
中でも人気なのが、ポルシェのカレラから着想を得た「ミリオネア」と呼ばれるサングラスだ。
ミリオネアは富裕層だけでなく、より幅広い層に人気の輪が広がり、2007年にはさらに多くのカラーでリリースされるほどの人気ぶりを見せた。
また、ヴァージル・アブローも2019年のヴィトンでのデビューコレクションで、ミリオネアを独自にアレンジした「1.1 ミリオネア」を制作しており、今でも最も人気なサングラスの一つと言えるだろう。
7 2010年にHUMAN MADEをローンチ
BAPEの立ち上げと運営に成功したNIGOは、自分のための服を作りたいという思いから、2010年にHUMAN MADE(ヒューマンメイド)を発表した。
BAPEの鮮やかな色彩から離れ、HUMAN MADEでは、クラシックで大人っぽいデザインを再現。
ヒューマンメイドは、Lil Uzi Veryなどの大物アーティストや、KFCなどのファストフードチェーンとのコラボも行っており、消費者が繋がりを感じるブランドを構築するNIGOの能力を遺憾無く発揮している。
8 2011年、BAPEを香港企業に2.3億円で売却
2010年になると、BAPEは高級感を失い、その輝きを失ってしまったため、25億円以上の負債を抱える事態に。
そのため、NIGOは会社の90%の株式を約2億3000万円で売却した。
その後、数年間BAPEに在籍していたNIGOは、最終的にはHUMAN MADEやその他のプロジェクトに専念するために、BAPEを退社している。
9 ユニクロ「UT」のクリエイティブ・ディレクターに就任
NIGOは2014年にユニクロ UTの初代クリエイティブ・ディレクターに就任し、同ブランドのグラフィックTシャツに劇的な変化をもたらした。
初めてドロップしたUTのTシャツでは、スターウォーズやLINE FRIENDSなど、様々なコラボレーションを行うことで、グローバルに展開するための土台を作った。
さらに、UNDERCOVERの高橋盾やファレルといったNIGOの友人たちともコラボしたが、最も大きなコラボはKAWSとのもの。
Supremeなどとの限定コラボでしか手に入らなかったKAWSのデザインがユニクロ UTで手に入るということで大きな話題となり、中国ではこのTシャツを手に入れるために、買い物客が互いに踏みつけ合うことさえあったそうだ。
10 ヴァージル率いるルイヴィトンとのコラボ
ヴァージル・アブロー期のルイ・ヴィトンのターニングポイントとなったのがNIGOとのコラボレーションであった。
両者は2020年と2021年とで二度コラボコレクションを発表しており、NIGOらしい遊び心を感じさせながらも完璧に仕立てられたチノパンやニットカーディガンといったアイテムは、ヴィトンをはじめとしたラグジュアリーブランドが、新しい世代といかにして関わるかを示した。
そして何より、彼がKENZOを再び活気づけてくれることを期待させる結果となった。
11 KENZOのアーティスティック・ディレクターに就任
2021年9月20日、NIGOがKENZOの新しいアーティスティック・ディレクターに就任することが発表され、世界中が騒いだ。
「賢三さんのものづくりの精神を受け継ぎ、新しいKENZOを創ることは、私の30年のキャリアの中でも最大のチャレンジですが、チームとともに精進していくつもりです」とNIGO氏は語った。
そして、2022年1月23日、高田賢三が1970年に初めてファッションショーを行った場所であるパリのギャラリー・ヴィヴィエンヌで見事なコレクションデビューを飾った。
KENZO新時代の幕開けを感じさせる一日であった。
MINARI.(ミナリ)は情報の質にこだわり、記事の執筆に時間をかけて丁寧に行っています。他の記事もぜひ合わせてお楽しみ下さい。